.庄内釣人倶楽部 - 山形県庄内地方(酒田・鶴岡)の釣り情報と釣り場地図 シーバスやヒラメなど、ルアーフィッシングのポイント紹介
 
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最終戦争論 - 石原莞爾著/中公文庫BIBLIO 20世紀
戦争史大観 - 石原莞爾著/中公文庫BIBLIO
世界最終戦争 - 石原莞爾著
人類後史への出発 - 石原莞爾戦後著作集
写真集 永久平和の使徒 - 武田邦太郎・菅原一彪
地ひらく 石原莞爾と昭和の夢 - 福田和也/文春文庫
英雄の魂 - 阿部牧郎
「満洲国」建国を演出した陸軍参謀 - 楠木誠一郎
石原莞爾と満州事変 - 太平洋戦争研究会
石原莞爾と満州帝国 - 歴史読本編集部
満州国を作った男 - 昭和期最大の天才軍人
満州合衆国 - 早瀬利之
石原莞爾 その虚飾 - 佐高 信
石原莞爾 満州備忘ノート - 早瀬利之
石原莞爾 - 青江舜二郎
石原莞爾の予言 - 佐治芳彦
石原莞爾の時代 -時代精神の体現者たち - 田中秀雄
石原莞爾のヨーロッパ体験 - 伊藤嘉啓
「昭和」をつくった男 -石原莞爾、北一輝、そして岸信介 - 小林英夫
イーハトーブと満洲国 宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷 - 宮下隆二
石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて - 田中秀雄
板垣征四郎と石原莞爾 - 福山雄三
世界最終戦争 甦る石原莞爾 - 佐治芳彦
NHK その時歴史が動いた - 「満州事変 関東軍独走す」
日本「軍人」列伝
東条英機 大日本帝国に殉じた男 - 松田十刻
庄内出身の思想家 大川周明
満州国と康徳帝 愛新覚羅溥儀
二・二六事件 - 平塚柾緒/河出文庫
パール判事の日本無罪論 - 田中正明 /小学館文庫
NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 DVD BOX
戦争論 - 小林よしのり/幻冬舎
天皇論 - 小林よしのり/小学館
歴代天皇125代+北朝5代、朝夕に諳んずるべし!
昭和天皇独白録 - 寺崎英成/文春文庫
日蓮聖人と法華経
日蓮「立正安国論」全訳注 - 佐藤弘夫/講談社学術文庫
諸子百家争鳴
 庄内第一の偉人 石原莞爾将軍 生誕120年・没後60年記念 
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 ■石原莞爾将軍墓所 - 遊佐町菅里字菅野
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  2009年8月15日は、60年目のご命日にあたります。 是非この機会に当地をお訪ねください!


[Googleマップ] 現地の詳細地図を確認したい場合は、こちらをクリックしてください。

 ■石原莞爾将軍墓所(いしわら かんじ しょうぐん ぼしょ) ×いしはら(本人談)
  ・所在地:山形県飽海郡遊佐町菅里字菅野(あくみぐん ゆざまち すがさと あざ すがの)
  ・最寄駅:JR羽越本線 吹浦駅(ふくら)より車で5分、徒歩20分
  ・駐車場:あり(新墓所)
  ・参観料:無料
  ・公開時間:いつでもお参りいただけます
  ・その他:あくまで個人の墓地であり、有志の方々の手により整備・公開されていることをお忘れなく
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 ※農場のあった開拓地「西山」はマイナーな地名です。「西浜」または「道の駅 鳥海」とお尋ねください。
  町の観光案内パンフレット・看板等には悉く記載なし 上記地図を以て訪ねなければ迷われるでしょう。

  (水色のパンフレット「遊佐町観光ガイド&マップ」の吹浦エリア地図に記載されるようになりました!)

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 ■「石原莞爾将軍墓所」の案内看板と「日輪講堂」
 国道7号線を北上、「道の駅 鳥海(ふらっと)」から約150m先のY字路を秋田方面へ直進、歩道橋手前。
 墓所の案内看板がすぐ左手に見える。左奥の建物が同志の学舎であった「日輪講堂」(移設改築)。
 当時の写真資料などがあるが通常は公開していない。特に案内板などもないので知らねば見逃す。
 将軍のご自宅は、ちょうどこのあたりに位置していた。その理念を体現した簡素な住まいであったという。
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 ※有志作成の看板は新墓所への案内です。旧墓所は国道を挟み右手の松林を上った高台にあります。

 ■石原莞爾将軍墓所(1) - 旧墓所
 
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 ■「石原莞爾先生の墓」木柱案内標識(右手上)
 石原将軍に土地と家を提供し、当地に止めてくださった東亜連盟 庄内地区幹部 桐谷誠氏の私有地。
 この先約200mほど松林の坂を上る。東に鳥海山、西に日本海を望む高台にもとの墓所がある。
 将軍の指導した東亜連盟は、戦争末期 全国支部組織74、会員およそ20万という一大勢力だった。
 (参議院協会刊『参風』93号、会員登壇36 武田邦太郎より 東亜連盟は昭和21年 GHQの指令で解散)

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 ■石原莞爾将軍墓碑
 盛り土の上に立つ墓碑。「南無妙法蓮華経」と御題目が刻まれたシンプルなもの。
 大正13年、ドイツ駐在中の将軍が、テイ子夫人に宛てた葉書文中の筆跡を写している。
 この墓所は死後に造られたものではあるが、場所・設計は将軍ご自身の案であるという。
 将軍と夫人の遺骨が安置されており、是非 新墓所とあわせて参られたい。

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 ■新日本建設の三原則碑
 将軍の目指した戦後日本復興を端的に表した「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の理念三原則。
 各標語の大略は次のとおり。(昭和22年『新日本建設大綱』より)

 ・都市解体 - 空襲による甚大な被害を教訓とし、誘惑と弊害の多い都市文明、集約型社会から脱する。
         人口、企業、工場の地方分散を進め、文化の偏在、都市と農村の相克対立を解消する。
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 ・農工一体 - 各家庭の主労働力は工業などの職に従事し、家族労働力をもって自家食糧を生産する。
         また地方が主動して都会人を受け入れ、土地解放を果断し、国民皆農の社会を目指す。
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 ・簡素生活 - 生活刷新により人間の優れた直感力を回復し、剛健な身体、謙虚なる人格を養なう為の
         絶対条件。 徹底して無駄を廃し、余財を交通・通信といった高度な科学の発達に資する。

 「簡素生活は断じて野蛮生活に帰ることではない。 自然と人為を完全に調和し、真に人類の生活を
 永遠ならしめる生活 ―科学と芸術とが渾然融合した生活である」(昭和22年刊 『われらの世界観』より)
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 ■石原莞爾将軍墓所(2) - 新墓所
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 ■墓所新設の経緯
 昭和57年、国道7号線 吹浦バイパス(新・旧墓所の間を通る国道)の着工にともない、
 旧墓所のある松林は保安林となり、県から墓地としての認可がおりなくなってしまった。
 平成6年、同志の方々が国道を挟んだ土地を購入し、新たにこの墓所を設けたのだという。
 これにより、旧墓所は墓ではなく遺跡の扱いとなったが、もと葬られた場所として尊重されている。
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 ■「石原莞爾先生の墓」、「石原莞爾先生墓入口」木柱標識
 国道7号線 Y字路すぐの案内看板から約300m、注意しなければまず見逃すであろう案内標識柱。
 左折して急な坂を30mほど上っていくと丁寧に手入れされた美しい景観の新墓所に出る。
 町の木・クロマツに囲まれた墓地の奥に、普通車10台は停められる十分な駐車スペースがある。

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 ■石原莞爾将軍墓碑
 旧墓所同様、盛り土に墓碑石柱が立つ特徴的な造り。銘も同じく「南無妙法蓮華経」の御題目のみ。
 円形墳墓のデザインは将軍ご自身の案によるという。(ただし、もっと小規模なものを想像されていた)
 緑がひときわ映える土台は、直径約10m、高さ約2mとかなり大きく、念入りに掃除され厳かで美しい。
 なお将軍のご遺骨は旧墓所にも安置されている。少々歩くが是非そちらにも参いられたい。

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 ■「同志之霊碑」
 将軍と志を同じくした人々が祀られている慰霊碑。農場では30名ほどが共同生活を送ったという。
 張り巡らされた黄帯はカラス除けの為のもの。お菓子など食べ物はお供えしないでください。

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 碑銘「私はただ仏さまの予言と日蓮聖人の霊を信じているのです 石原莞爾」
 将軍は日蓮教の熱心な信仰者であった。 記念碑右手に秀峰 鳥海山を望む。

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 ■石原莞爾肖像レリーフと「永久平和」、「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の三原則
 「簡素生活」は、「節用(墨子)」、「知足(老子)」、「貧楽(顔回・原憲)」、墨・道・儒の折衷だ。
 これに習えば誰もが心豊かな生活をもっとも安上がりに手に入れられるのですが。

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 ■碑銘全文
 「石原莞爾は一九二五年(大正十四年)最終戦争論を発表し 一九四九年(昭和二十四年)に
 死ぬまでの彼の一切の思想 行動は この歴史観に基づいていた」 満州事変と日華事変の処置
 軍備計画の樹立 日本最初の国家経済計画の立案 東亜連盟運動の指導 太平洋戦争の
 阻止運動から 敗戦後の武装完全放棄論まで 彼の思想と行動のすべては最終戦争論から
 導きだされたものであった  実弟 石原六郎

 最終戦争論で近い将来戦争は無くなると断定した石原先生は 全人類の熱望する永久平和の
 時代が 近代科学文明を駆使したところの「民族協和 共存共栄」の社会であるとし その第一歩
 として戦後日本の進路を「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の三目標に要約され この目標
 達成こそが最終戦争を回避して 永久平和社会に到達し得る最良で最短の道であると教示された

 われらがこの選択を誤った場合 最終戦争は必然となり 地球上は大惨禍の坩堝より次代文明の
 建設という想像を絶する苦難の道を歩まねばならぬとされた
 二者択一は懸って私達の双肩にあるといえる」


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 ■資料館兼記帳所
 右手の棚では関連資料・書籍・冊子・DVDなどが販売されている(代金は管理費に充てられる)。
 机の上には芳名帳と自由ノートが備えてあり、全国から大勢の方が参いられているのが分かる。
 同町民でも迷うのだから、この方々はさぞ迷われたであろうというのも本頁を作成したきっかけ。
 「今、貴方様が腰かけて居られる椅子は…」 なんとも畏れ多い(だが嬉しい)サプライズが!

 ■庄内第一の偉人 石原莞爾
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 ■石原莞爾(いしわら・かんじ) 1889 - 1949
 山形県鶴岡生まれ。陸軍大学校卒 陸軍中将。東亜連盟運動の指導者、最終戦争論を唱えた思想家。
 関東軍作戦主任参謀として満州事変を主導、民族の協和を理想とした満州国の建設を推進した。
 二・二六事件では当初から反乱部隊の討伐を主張し、戒厳司令部 戒厳参謀として鎮圧にあたる。
 東条英機を批判して罷免され予備役編入。十五年戦争の先駆ともいわれるが戦犯からは除外された。
 戦後、遊佐町西山開拓地に移り、同志と集団農場を運営する。 昭和24年、死去。享年60年7ヶ月。
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 ■石原莞爾年譜・関連年表
 明治22年(1889年)1月18日 山形県西田川郡鶴岡町日和町に生まれる(啓介・カネイの三男)
 明治34年(1901年) 山形県立荘内中学校に入学 同年中退
 明治35年(1902年)9月 仙台陸軍地方幼年学校に入校
 明治37年(1904年)2月6日 日露戦争勃発
 明治38年(1905年)9月 東京陸軍中央幼年学校に入校
 明治40年(1907年)12月 陸軍士官学校に入校
 明治40年(1907年)6月 士官候補生として山形歩兵第32連隊附
 明治42年(1909年)12月25日 陸軍歩兵少尉・会津若松歩兵第65連隊附
 明治45年(1912年)7月30日 明治天皇崩御
 大正元年(1912年)7月30日 大正天皇践祚 「大正」に改元
 大正3年(1914年)6月 第一次世界大戦勃発
 大正4年(1915年)11月 陸軍大学校に入校
 大正7年(1918年)11月 陸軍大学校卒業(第30期) 原隊復帰
 大正8年(1919年)4月 陸軍歩兵大尉・歩兵第65連隊中隊長
 大正8年(1919年)8月 国府[金弟]子(ていこ)と結婚
 大正9年(1920年)4月 田中智学に出会い国柱会会員となる 以後、日蓮教の信仰者に
 大正9年(1920年)5月 漢口に着任
 大正10年(1921年)7月 陸軍大学校兵学教官に任命
 大正11年(1922年)9月 ドイツ駐在
 大正12年(1923年)9月1日 関東大震災発生(在ドイツ)
 大正13年(1924年)8月 陸軍歩兵少佐
 大正14年(1925年)10月 陸軍大学校教官になり古戦史を担当
 大正15年(1926年)12月25日 大正天皇崩御
 昭和元年(1926年)12月25日 昭和天皇践祚 「昭和」に改元
 昭和3年(1928年)6月4日 張作霖爆殺事件
 昭和3年(1928年)8月 陸軍歩兵中佐
 昭和3年(1928年)10月10日 関東軍作戦主任参謀
 昭和6年(1931年)9月18日 柳条湖事件を首謀 満州事変勃発 いわゆる十五年戦争はじまる
 昭和6年(1931年)10月8日 錦州爆撃を指揮
 昭和7年(1932年)3月1日 満州国建国宣言
 昭和7年(1932年)8月8日 陸軍歩兵大佐 陸軍兵器本廠附
 昭和7年(1932年)8月 ジュネーブ会議随員
 昭和10年(1935年)8月1日 参謀本部作戦課長
 昭和11年(1936年)2月 二・二六事件で戒厳司令部参謀兼務で処理に当たる
 昭和12年(1937年)3月1日 陸軍少将 参謀本部第1部長
 昭和12年(1937年)7月7日 盧溝橋事件 日中戦争(支那事変)勃発
 昭和12年(1937年)9月27日 関東軍参謀副長
 昭和13年(1938年)8月18日 兼満州国在勤帝国大使館附陸軍武官
 昭和13年(1938年)8月 満州支配方式について参謀長 東条英機中将を批判し罷免される
 昭和13年(1938年)12月5日 京都舞鶴要塞司令官
 昭和14年(1939年) 8月1日 陸軍中将 留守第16師団司令部附
 昭和14年(1939年)9月 第二次世界大戦勃発
 昭和15年(1940年)9月 『世界最終戦論』刊行
 昭和16年(1941年) 参謀総長 東条英機に罷免される
 昭和16年(1941年)4月 立命館大学講師、国防学研究所所長就任
 昭和16年(1941年)6月 東亜連盟協会顧問
 昭和16年(1941年)8月 『戦争史大観』『国防論』当局の指示で自発的絶版に
 昭和16年(1941年)8月31日 予備役編入
 昭和16年(1941年)9月 京都から山形県鶴岡市へ帰郷
 昭和16年(1941年)9月 立命館大学講師を辞職
 昭和16年(1941年)12月8日 真珠湾攻撃 太平洋戦争開戦
 昭和20年(1945年)3月10日 東京大空襲
 昭和20年(1945年)8月6日 アメリカ、広島市へ原子爆弾使用(濃縮ウラン型)
 昭和20年(1945年)8月9日 アメリカ、長崎市へ原子爆弾使用(プルトニウム型)
 昭和20年(1945年)8月15日 終戦の詔書、玉音放送 内閣顧問への就任を断る
 昭和20年(1945年)9月2日 日本、降伏文書に調印 第二次世界大戦終結
 昭和20年(1945年)9月12日 東亜連盟山形新庄大会
 昭和21年(1946年)1月 GHQより東亜連盟に解散命令
 昭和21年(1946年)4月 極東国際軍事裁判(東京軍事裁判) 戦犯最終リストから除外される
 昭和21年(1946年)8月 京都から山形県鶴岡市へ帰郷
 昭和21年(1946年)10月 『国防政治論』刊行
 昭和21年(1946年)10月12日 山形県飽海郡高瀬村西山開拓地(現遊佐町菅里)に転居
 昭和22年(1947年)5月1日・2日 極東国際軍事裁判 酒田出張法廷(酒田商工会議所)に証人として出廷
 昭和23年(1948年)12月23日 東条英機、板垣征四郎ら、いわゆるA級戦犯7名が刑死
 昭和24年(1949年)8月8日 『日蓮教教義入門』脱稿
 昭和24年(1949年)8月15日午前4時55分、乳嘴腫及び肺水腫のため西山にて死去 享年60年7ヶ月

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 ※フリー百科事典「Wikipedia」他より抜粋


 本頁の作成にあたり、武田邦太郎先生、鈴木和子さんはじめ、関係各位にお話を伺いました。
 若輩の無遠慮な訪問に何度も快く応対いただき、ありがとうございました。深く感謝いたします。

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